9時35分頃、三度目の正直と、メジロを撮りに野間馬へ。今日もまたメジロは
何処かへ飛び立つた後でした。 いくら待っていても来ないとしょうがないので、
桜井の網敷天満宮梅園へ。天満神社拝殿と風呂神社の間には ピンク色の梅と白梅が
可愛い花を咲かせていました。
社務所の庭の紅梅にはメジロやヤマガラが飛び交い写真を撮るには好都合なんで
すが 高い枝に止まるので中々上手く撮ることが・・・・・・・・・ 運よく手水鉢へ止まった
可愛いクルクルお目々のヤマガラを撮影。梅園の梅はまだ二分咲き程度で白梅から
咲き始めている様です。
境内から桜井海岸へ、何処からか飛んで来たアオサギを追っかけ桜井漁港を駆け
まわりました。
9:35 野間馬さんの河津桜は満開になっていました。大きなレンズの一眼レフ
カメラを抱えた男性に「 メジロは来ましたか 」と聞くと、メジロは来たけどすぐに飛
び立ったらしく「 カメラマンが来たのでメジロが逃げた 」とおばちゃんに怒られたと
帰りかけていました。これから桜井の網敷天満宮へ行くそうです。
今日の河津桜は満開ですが花に元気がありません霜にやられたのでしょうか !
暫らくメジロの来るのを待ちましたが鳥の気配が感じられません。
私も網敷天満宮へ行こうと・・・・・「 バイクでは風を切って寒すぎる行こうか止め
ようか」と迷った挙句 思い切って、桜井の網敷天満宮へ出発、野間馬を後にする。
国道196号線を桜井方面へ,愛媛県道162号朝倉伊予桜井停車場線 (えひめけんどう
162ごう あさくらいよさくらいていしゃじょうせん)へ左折、突き当り県道38号線 ( 今治街道) を
を左折、桜井交差点信号で右折天神町へ。
天神橋
網敷天満神社 西鳥居
天神橋を渡り直進すると正面に網敷天満神社 西鳥居があり駐輪場へバイク ( 原付 )
を止め境内へ。
参道
元県社 綱敷天満神社畧記
由緒
菅原道真公は醍醐天皇の御代 昌泰4年正月25日( 901年 )にわかに大宰府へ左遷される。
同年2月1日十挺櫓(じゅっちょうろ)の屋形船にて配流の旅へつかれた。
その途中予州の迫門( 壬生川沖 )において風波の難にあわれ御船あぶなき祈り 広川修善( 当神社
宮司の先祖 )と里人が一行を助け今の志島の東端に漕寄せ岩上に御座所を設けたが咄嗟の事にて敷物
がなく漁船の綱を丸く巻き円座の替わりとした。( この古伝により「 綱敷天神 」という社名となる。 )
その時 菅公は濡れた烏帽子 ・ 冠 ・ 装束等を近くの岩上に干された。( 後にこの岩を「衣干岩」と
称す。)里人は折敷の上に鮮魚(小魚)をのせて献上し御安泰を御祝いしたと
菅公は里人の厚意に感激され自ら梶柄に荒々しく御尊像を刻んで姓名を告げ「後日私が帰洛したなら
これを証として都を尋ねなさい。 もし筑紫にて没したと聞けば これを素波神( そばがみ )と称し祭
りなさい。」 と申された。 郡司 越智息利により残された御尊像をこの地の南端に小社を建て素波
神として祭り尊崇した。
この御尊像を御神体としてお祀りしたのが当社の創始である。享保5年6月28日(1720年)松山藩主
松平隠岐守より現在の地に社殿を建立した。
戦前は県社に列格され県内最大の天満神社として一年を通し特に受験シーズンには菅公にあやかりたい
境内は三万三千坪あり昭和16年には国の名勝地に指定され最近では日本の松原百景に選ばれた。人の
手 を 加えない自然の松原は絶景である。
又その中に梅園(梅の木300本余)も整備されており天神様の境内地にふさわしく花の咲く頃になる
と 多くの参拝者・観光客でにぎわう
( 拝殿正面左側、 元県社 綱敷天満神社畧記説明板より )
梅 の 花 幾 世 の 春 や 匂 う ら ん
志 島 ヶ 原 の 神 の 宮 居 に
伏 見 貞 教 親 王
天満神社拝殿と風呂神社の間には ピンクの梅と白梅が可愛い花を咲かせていました。
絵馬堂
天神様と牛
天神様と牛にまつわる説話はいろいろありますが、一般的には菅公が大宰府で亡くなられた時、
御遺𩨬を運ぶ牛車が途中で動かなくなってしまい、止むなく、その地に埋葬したのが安楽寺。
すなわち太宰府天満宮のはじまりであることが知られています。
いつの頃からか、一つの願いに祈りをこめ、高く尊き天神様の御陰を賜らんと、この座牛を触れ
さする信仰があります。
絵馬堂裏の清風館の紅梅には メジロやヤマガラが飛び交っています、写真を
撮るには好都合ですが高い枝に止まるので中々上手く撮ることができません !
運よく手水鉢へ止まった可愛いクルクルお目めのヤマガラを撮影。
境内の広さは 約11万平方メートル、約3千本の黒松の巨木と白砂青松の景勝地です。
網敷天満神社西鳥居から網敷天満宮へ、更に境内を直進すると東鳥居へその向こうは
桜井海岸です。
真っ直ぐ行かないでこれから 網敷天満神社を左折し、北鳥居前を右折。
桜井漁港へ。
真昼の漁港は とっても長閑で~す。スズメを撮っているとカモメが飛んできて
カモメとスズメを撮っていると今度は頭の上をバタバタと大きなアオサギが飛んで
何処かへ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ !!
どこに止まっているのでしょうか。
遠くの漁船のマスとに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
近くで写真を撮ろうと思ったら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
また何処かへと・・・・・・・・・・白いテントから次々と飛び移り・・・・・・・
最後はこの船に。
親子でしょうか40分程待ちましたがアオサギはこの船を離れませんでした。
桜井海岸まで帰りかけると漁船が港へ・・・・・・・また引き返して漁港へ。
活きの良い鯵を網に移しています。
そろそろ漁港を後にします。
志島ヶ原海岸
志島ヶ原砂浜の常夜灯
道路を挟んで 東鳥居 嘉永5年 ( 1852 )
狛犬さん
村上龍太郎翁像
明治25年~昭和39年(1892~1964)農林行政官、緑化運動推進。越智郡桜井村(現今治市)に
明治25年1月4日生まれ、今治中学(現今治西高校)から六高(岡山)を経て、東京帝国大学政治学科
を卒業。大正6年農商務省山林局に勤め、畜産・山林・馬政各局長を歴任、昭和25年から昭和39年まで
14年間、国土緑化推進委員会常任委員長を勤めた。太平洋戦争後国土の荒廃を憂い、山林の緑化整備を
国民運動にまで高めた。毎年行われる植樹祭、国土緑化大会をはじめ、「緑の羽根」募金,全日本学校
植林コンクールなどを通じて行われる国土緑化推進運動の大きな原動力となった。
また,「東予育英会」の会長となり、郷土の青少年を多く育成した。 その他、農村法制研究会々長、
農山漁村文化協会々長、全国治山治水財団理事長など各方面で活躍した。昭和39年7月31日、72歳で
死没した。 (『愛媛県史 人物』より)
国指定 名勝 志島ヶ原
「 こち吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れぞ 」
藤原氏が全盛をきわめ 平安文化が最盛に達したころ 右大臣菅原道真は 天皇の信頼を受けながら
藤原氏の告げ口によって 遠い九州の大宰府に流されることとなった。都を出発して桜井の沖にさしか
かった時 浜がにわかに荒れてやっと志島ヶ原にたどり着いた。里人たちは菅公の身に何事もなかった
のをよろび船の舳網を巻いて敷物にしてお迎えしたので網敷天満神社の名がつけられたと言われている。
境内の広さは 約11万平方メートル 約 3千本の黒松の巨木と白砂青松の景勝地である。海岸近くに
は菅公ゆかりの 衣干岩や筆塚・記念碑などがある。 海岸側には幕末の黒船に備えた台場跡があり
安政二年乙卯六月成の碑が残っている。 また桜井名物として名高い エビ・カニの料理がある。
近年梅林などが育てられ環境が整備されて夏の海水浴の客も多く、前に斎灘 後に世田山など史跡を
控えて四季折々の眺めは また格別である。
昭和16年2月21日 文部省指定 志島ヶ原振興会
「 私 を 10 分 間 使用してください みんなできれいな松原にしよう 」と
書かれていて、駒札の支柱には熊手と竹箒が設置されています。
月賦販売発祥記念の碑
當地方は伊豫國府が置かれ文化並びに経済交通の中心であった。 徳川の末期桜井漆器の販路
開拓を目指す多数の帆船が遠く九州 中国 近畿等の地に活躍した椀舟と呼ばれたこれらの船行商の
殆どが分割拂いの便法を用いて販路の擴大に成功した この販賣方法が次第に發展を遂げ我が國に
おける今日の月賦販賣方式を生むに至った濫觴の地である
菅公鎮座一千年祭の佳辰に當 業者相謀りこの地に一碑を建立してその發祥を記念する次第である
昭和三十八年五月三日日 全国月賦百貨店連合會
松林から梅園へ。
ここでは、土壌を改良し若木を植え育てています。
網敷天満宮梅園へ。
素波神社
最初に建てられた一祠。鮮魚を里人に献上されるなどの厚意に感じた道真は、舵柄に自像を刻み
「 私は菅原道真である。もし私が無事帰洛できたなら、この像を証拠として都を訪ねなさい。私が
配地で没したと耳にしたなら、この像を素波神 ( そばがみ ) と称し祀るように 」 と述べたと伝えら
れている。 道真公は太宰府で没し、素波神は当地南端の祠に祀られることとなった。
現存のものは鎮座千百年式年大祭 ( 1997 ) に新築。
前述の伊予日記には「 天慶5年 ( 942 ) に素波神を網敷天満宮と改称。 正徳2年 ( 1712 )
神仏分離により荒神社に合祀。 享保6年 ( 1721 ) 6月28日に社殿を志島ヶ原に建立すとある。